主任調査員の金子です。
12日(日)に両親の故郷福島県二本松市へ行ってきました。
二本松は中世から続く城下町ともあって、多彩な歴史がある街です。戦国時代の伊達政宗との戦い、幕末戊辰戦争での二本松少年隊士の悲劇など、今でも語り継がれる歴史があります。
私は年2~3回は二本松を訪れ、二本松の人たちの足跡を追うべくお墓の調査や資料調査をライフワークとして続けています。
今回は昨年オープンしたにほんまつ城報館内の二本松歴史館で開催されている企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」をみるために訪れました。

朝河貫一博士は旧二本松士族の家に生まれ、福島尋常中学校へ進学し、特に抜群の英語力を持ち首席で卒業しました。東京専門学校(現早稲田大学)に進み、大西祝・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟らの渡航費援助によりアメリカへ留学。
ダートマス大学に編入学し、卒業後はイェール大学大学院歴史学科に入学し、その後、ダートマス大学講師に迎えられました。
日露戦争が勃発すると、日本の正義を英米国民に説き、ポーツマス条約締結時に日本側のオブザーバーとして参加しました。その後、イェール大学に迎えられ日本文明史を担当し、歴史学助教授に昇進しました。
このころ、日本では日露戦争の勝利に浮かれて軍国主義が台頭していました。朝河博士は歴史学を学んできた見地から、これを警告し、このままいくと世界から孤立すると訴えた『日本の禍機』を執筆します。残念ながら、これは太平洋戦争の予言書となってしまい、朝河博士の憂いは的中することになります。
歴史学者としては中世法制史を専門として、鹿児島の入来院家に伝わる文書を調査した『入来文書』で世界的な評価を得ました。日本とヨーロッパの封建制度を比較したもので、当時ほかに例がない研究でした。これら東西封建制の比較研究の実績により、昭和12年(1937)には日本人初のイェール大学の正教授となりました。
昭和16年(1941)、日米に開戦の危機が迫ると、開戦を回避するために、ルーズベルト大統領から昭和天皇へ送る親書の草案を作成しました。これを基に作成された親書が日本に届いたのは、正に真珠湾に向けて攻撃機が飛び立ったその直後でした。朝河博士の願い空しく日米は開戦しました。
開戦後、アメリカ在住の日本人・日系人の多くが強制収容されるなど、行動の制限を受けましたが、朝河博士にはこれまでの業績と思想への敬意がはらわれ、行動と学問の自由が保証されました。朝河博士は終戦後の昭和23年(1948年)8月11日に74歳で亡くなりました。
訃報は「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」と世界中に打電されました。
今回の二本松歴史館での企画展は朝河博士生誕150年を記念したもので、パネルの展示が多いですが、朝河博士の生涯をコンパクトにまとめており、福島中央テレビで放送された30分間の番組も上映され、朝河博士の業績をよく理解できる内容となっています。ゆかりの地マップも配布されており、これは出身地ならではのことです。
私の先祖は二本松の一般庶民の家であり、朝河家と何か関係があったという話は聞いたことがありません。しかし、朝河博士の生家跡は私の母方の菩提寺のすぐ近くにあり、朝河博士のお墓がある金色墓地には私の父方の曽祖父のお墓があります。子どもころにお墓参りにいくと、すぐそばに朝河博士のお墓があり、そのころはどういう人物かは分かりませんでしたが、何か偉い人のようだとの認識はありました。


このように、郷土の偉人をしることは、先祖調査により深みを与えてくれます。郷土の偉人と自分の先祖は同じ町のどこかの道ですれ違っていたかもしれない。そう考えるとその土地のことをさらにしりたくなりますね。
皆さんも是非、郷土の偉人のことも調べてみてください。
なお、二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」は3月26日(日)まで開催されています。