『寛政重修諸家譜』をみながら「どうする家康」をみる

『寛政重修諸家譜』をみながら「どうする家康」をみる

主任調査員の金子です。
みなさん、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」はご覧になっているでしょうか?
大河ドラマは今年で第62作を迎え、国民的ドラマとして定着した感があります。
大河ドラマがきっかけで歴史を好きなった方も多いのではないでしょうか?かく言う私も小学生の時にみた「独眼竜政宗」をみてから歴史が好きになり、現在に至っています。

個々のドラマの評価はさまざまで、個人の思い入れもそれぞれですから、今作の評価には触れませんが、主人公が徳川家康ということで、私なりの楽しみ方をみつけて楽しんでいます。
今作には既に数多くの徳川家臣団が登場しています。彼らはこの後、江戸幕府が開かれると大名や旗本として、明治維新まで続くことになります。もちろん途中で改易・無嗣断絶した家も相当数いますが、これら断絶した家も含めて、大名・旗本家の系譜は江戸後期の寛政期に編纂された『寛政重修諸家譜』に系譜が収められています。
当社の調査でもご先祖が旗本というお宅の調査で、何度もお世話になっている『寛政重修諸家譜』。源平藤橘などの本姓ごとにまとめられ、各家の出自、略歴、葬地、家紋などさまざまな情報が書かれています。

たとえば、2月26日に放送された第8回「三河一揆でどうする!」では、家康の家臣で一向宗の信者である土屋長吉が主従関係と信仰の間で揺れ動き、家康をだまして本證寺に誘い込んだものの、家康がまさに殺されそうになる瞬間に長吉が身代わりとなって刺され、その後息を引き取るというシーンがありました。
土屋長吉は諱を重治といい、『寛政重修諸家譜』にはこの土屋重治の家系も詳しく書かれています。
『寛政重修諸家譜』では通称を惣兵衛・甚助と、長吉という名は書かれていません。ドラマの描写は創作ですが、『寛政重修諸家譜』の記述では上和田砦にいた大久保忠勝・忠世の援軍として駆けつけ、奮戦し敵を一旦撃退しましたが、さらに敵に加勢がきてその際の戦闘で戦死しています。
これには異説があり、では一揆方についていた長吉が、上和田砦に援軍に来た家康が危機に陥っている所をみて、一揆方から家康方に転じ矢をうけて戦死したともいい、ドラマではこの異説を基に描いたものとみられます。
『寛政重修諸家譜』を読み進めると、土屋重治の子孫が複数の旗本として続いていたことが分かります。さらにその一つの土屋利陽にはじまる家の葬地をみると、浅草本願寺の長敬寺とあります。子孫も浄土真宗(一向宗)を信仰したことが確認できます。

このように、ドラマに登場する家臣団の実際の姿、家族構成、子孫のその後が『寛政重修諸家譜』で確認することができます。
ドラマを見終えたら『寛政重修諸家譜』で気になった人物のことを調べてみると、よりドラマが楽しめるのではないでしょうか?
なお、『寛政重修諸家譜』は全22巻ありますので、購入しないで図書館で読むと良いと思います。索引が4巻ありますので、姓か諱か通称で該当人物を探し出し、本編を開くと良いでしょう。