「スタッフブログ」カテゴリーアーカイブ

ファミリーヒストリー記録社のスタッフによる記事です。

品川神社例大祭

主任調査員の金子です。
私の自宅の近くの品川神社では6月2日(金)から4日(日)にかけて、4年h振りの「例大祭」が行われています。
別名「北の天王祭」とも呼ばれ、同時に行われる荏原神社の「南の天王祭」とあわせて、旧品川宿の北品川・南品川にかけてお祭りムードに包まれます。
コロナで3年連続中止となっていましたが、久々の再開とあって、大勢の人でにぎわっています。

品川神社例大祭は6月7日に近い金・土・日曜日に行われ、徳川家康が関ケ原の戦いの戦勝を祝して奉納したという、「天下一嘗の面」をつけたお神輿が「品川拍子」にのせて北品川の町を練り歩きます。最終日には品川神社の53の石段をお神輿を担いで登る「宮入」でクライマックスを迎えます。

このような「お祭り」もご先祖調査の情報源の一つとなります。
祭礼への寄附情報や、祭礼の役割分担などの資料にご先祖の名前が載っていることがあります。お噺の役割分担表にご先祖のお名前が載っていたケースもありました。
また、ヒアリングの時にはご先祖の情報があまりない方でもお祭りのことを聞いてみると、いろいろなお話が出てくることがあり、家の歴史とその土地の「お祭り」はとても密接な関わりを持っています。

ご先祖が住んでいた土地の「お祭り」をまだ見たことがない方は、一度見てみると良いと思います。
ご先祖が毎年楽しみにしていた「お祭り」を体感することで、ご先祖の想いを感じることができると思います。

黒い壁の民家

主任調査員の金子です。

前回は岡山出張の話を書きましたが、今回も岡山での話です。

岡山の城下町は現在、岡山市の中心ともあって、近代的な街並みに変わっていますが、郊外へ移動すると、古い民家が残っており、趣のある風景をみることができました。

特に東日本ではほとんどみられない、黒い壁の民家が数多くみられました。

この黒い壁の正体は「本焼き板」という杉板の表面を焼いて炭化処理した板で、湿気や塩害に強く瀬戸内地方の民家でよく使用されているものでした。

表面を炭化することにより、燃えにくく、腐りにくくなり、耐久性が高くなります。

「本焼き板」は、この土地に住む人たちが、風土に合わせて編み出した知恵だったのです。

民家に限らず、生活様式・習慣など、さまざまなことが地方によって異なります。

ご先祖調査は一代ずつ先祖の名をさかのぼって行くだけではなく、どのような土地でどのように生活をしていたかを知ることも大事なことです。

現地に行くということは、ご先祖の生活感を肌で感じることでもあります。

岡山でみた「黒い壁の民家」からは瀬戸内に生きる人たちの生活の知恵を感じることができました。

城下町を歩く―岡山城下をゆく―

主任調査員の金子です。

先日、調査のため岡山県へ行きました。

3日間にわたりお墓の調査、古文書撮影、図書館での資料探しをしてきました。

現地調査では移動中や訪問予定の前後の空き時間もできうる限り、史跡などを見るようにしています。

特に城下町では歩いているだけで、史跡に遭遇しますので、特に下調べをせずとも、さまざまな史跡を見ることができます。

岡山は岡山藩池田家31万5,000石の城下町ともあり、街中に史跡がありました。

まず、岡山藩藩学の跡地です。

江戸時代には各藩に藩の学校である「藩校」がつくられましたが、岡山藩の藩校が最古のもので、寛文9年(1669)名君と呼ばれた藩主池田光政によって開設されました。

跡地は公園となっており、藩校の前身となる花畠会を創設した陽明学者熊沢蕃山の石碑などが建てられています。

城下には必ず藩士たちの屋敷が並び、著名な藩士の屋敷跡には石碑や案内板が設置されていることがあります。

日本三大仇討ちの一つ「鍵屋の辻の決闘(伊賀越えの仇討ち)」の当事者である渡辺数馬の屋敷跡や、2代の藩主にわたり補佐役として藩政を支え、土木事業や産業振興に尽力した名臣津田永忠の屋敷跡には案内板や石碑がありました。

城下町は村とは異なり、狭い範囲で細かく町名がつけられています。

町名の由来を記した案内板もありました。

この紙屋町はもともと麹をつくる職人が多く住んでいましたが、別の地に移され、その跡に紙を扱う商人が増えたために紙屋町となったとあります。

このように城下町の町名がそこに住んでいた人たちの職業にちなむ町名がみられます。

ご先祖が城下町に住んでいた武士や町人であった場合、城下町調査は必須となります。

また、ご先祖が農村出身であっても所属していた藩の城下町をみることによって、藩の規模が分かります。

いずれにせよ、城下町を歩くことによって、その土地のさまざまな歴史をみることができます。

現地調査は朝から日が暮れるギリギリの時間まで行います。この日も19時前まで県立図書館で調査をしていましたが、終わったとたん「腹が減った」ということで、岡山名物の「デミカツ丼」を名店カツ丼野村でいただいてきました。一見濃厚そうなデミグラスソースですが、味は意外とまろやかでした。

現地調査は体力勝負ですので、スタミナがつくものを食べるのがいいですね。

どうみる「らんまん」

主任調査員の金子です。

今月からNHK連続テレビ小説第108作「らんまん」が放送されています。

今回は植物学者牧野富太郎をモデルにした槙野万太郎が主人公で、幕末から昭和までを描くということもあり、ファミリーヒストリー的な目線でみることができるのではないかと思っています。

1週目では江戸時代の造り酒屋の様子や、商家の本家・分家の関係、当時の慣習や迷信などが丁寧に描かれていました。

2週目では万太郎が郷校名教館に通い、士族の子弟たちと一緒に学ぶ姿や、廃藩置県で領主深尾家が東京去り、家臣の塚田昭徳が帰農するという場面が描かれました。

幕末の城下町の商家、武士と商人の関係など、ご先祖調査でもよく取り上げられる場面が描かれており、大変関心を持ちながら視聴しました。

牧野富太郎が生まれ育った高知県高岡郡佐川町は土佐藩の領内で、1万石の土佐藩家老深尾家が領主となっていました。1万石=大名と考えがちですが、当時、徳川御三家や加賀・仙台・薩摩・長州・岡山など大大名の家臣には1万石以上を与えられた家老がおり、深尾家もその一つでした。これらの家には家臣がおり、本藩からみると家臣の家臣にあたり、これを陪臣といいます。ドラマに登場した榎木孝明さん演じる塚田昭徳は土佐藩の陪臣ということになります。

郷校名教館にはドラマで寺脇康文さんが演じていた池田蘭光のモデルとなる伊藤蘭林という名教授がおり、教え子には富太郎のほかに、明治政府で要職を歴任、宮内大臣を11年務め、晩年は土佐出身の志士の顕彰に尽力した田中光顕、近代土木の礎を築いた工学博士廣井勇、自由民権運動家で奈良・石川・山口県知事を務めた古澤滋がいました。

古澤滋の父南洋も名教館の教授を務めており、ドラマで池田蘭光のほかにもう一人出てきた教授が古澤と呼ばれていたので、南洋がモデルであったかもしれません。

写真は東京都文京区護国寺にある田中光顕のお墓と、東京都台東区谷中霊園にある古澤南洋のお墓です。

江戸時代は学問が発達し、藩校・郷校・私塾などが各地に設けられるようになりました。ご先祖調査でも幕末維新ごろのご先祖が藩校に通っていたとか、寺子屋の師匠であったとか、寺子屋の師匠を援助していたといった話がよくあります。

これからも万太郎が東京に出て植物学者などさまざまな人たちと出会いますが、それぞれモデルとなった人物がいますし、今のところ時代背景も丁寧に描いていますので、ファミリーヒストリー的な目線でみるとより楽しめるのではないかと思います。

墓石に込められたご先祖の想いを読み解く―町屋石からみえること―

主任調査員の金子です。

ご先祖調査で欠かせないのがお墓の調査です。

紙の文書が残っていない場合、石に刻まれた文字がご先祖の有益な情報になるケースが数多くありました。

お墓調査の場合、まずは刻まれている文字を読みとるということが重要になります。

さらに文字以外の要素からも情報を得られることがあります。

例えば、お墓の大きさや形式によって、その土地での地位などが見えてくる場合があります。

墓所の配置からも本家・分家の関係など、家同士の関係が見えてくることがあります。

それと、現時点ではご先祖調査に生かしきれていませんが、墓石の石材からも見えてくるものがあるのではないかと考えています。

さまざまな墓地へ行っているとだんだんと、地域によって石の色、形、彫り方などに特徴があることに気付きます。

以前から気になっていたのが、東京都豊島区にある水戸徳川家の墓石です。

画像は大河ドラマ「青天を衝け」にも登場した徳川慶喜の弟で、水戸藩最後の藩主となった徳川昭武の家族のお墓です。

画像ではみえにくいですが、細かいまだら模様が入っており、色は墓石の状態にもよりますが、緑や茶色が混ざったような独特な色をしているのが特徴です。

これと同じ石を同霊園内・青山霊園・谷中霊園等でみかけることがあり、これらのお墓をよく見てみるとほとんどが旧水戸藩士だったのです。

そして、水戸市へ行き、水戸藩士のお墓を調査したところ、藩士の共有墓地である常磐共有墓地や酒門共有墓地でこれと同じ石が数多くみられました。

数年前、石材屋さんとお話する機会があり、この話をしたところ、それは町屋石ではないかとのことでした。

町屋石のことを調べてみると、ズバリ「水戸藩の石」だったのです。

このことは『常陸太田市史 民俗編』に詳しく書かれていました。

常陸太田はあの有名な「水戸黄門」こと水戸藩2代藩主徳川光圀が隠居した地であり、この辺りで採掘されていたのが町屋石で、この石に注目した光圀が水戸徳川家の墓所瑞龍山に建立する墓石に採用し、藩御用の石屋亀屋に採掘を許可し、江戸期にわたり一般の採掘が禁じられていました。

実際のところ、江戸期に瑞龍山だけで使われていた訳ではなく、幕末に北海道石狩町の神社に奉納されている事例があり、この神社の氏子であった漁場の元締めの関係者が水戸藩内の那珂湊へ来た際に購入したものであったようです。

町屋石は「斑石(まだら)」という石材の一種で、町屋は採掘された地名に由来しています。

模様は笹目、べっこう、牡丹、紅葉、霜降りなどがあり、笹目が高級とされています。

水戸徳川家の墓石をみると、やはり笹目が多く使われています。

都内の霊園で町屋石の墓石を使っているのが、十中八九旧水戸藩士であったのはこういう訳があったのです。

彼らは東京に移住し、東京に墓所を設けても、水戸藩士であった誇りを忘れずに故郷の石をわざわざ取り寄せて墓石にした訳です。

そのように考える、こういった事例はほかの地域でもあるかもしれません。

墓石の石材から、ご先祖の想いを知ることができるかもしれませんね。

渋沢栄一自伝『雨夜譚』を読む

主任調査員の金子です。

先月は今年の大河ドラマ「どうする家康」の話をしましたが、私は一昨年の「青天を衝け」が本当に大好きで、毎週日曜日が来るのを待ち焦がれながら1年近くを過ごしていました。

というのは15年前くらいから「青天を衝け」主人公の渋沢栄一に強い関心を持ち、その多大なる業績に対し、世の中の認知度が低いことを嘆かわしく思っていました。

私がプライベートで活動している会で、何度か谷中霊園の渋沢栄一のお墓を案内して、その業績や人物像について語ったものでした。

そのような訳で、大河ドラマの主人公になるのは望外の喜びでした。内容も栄一の自伝など、数々の資料をベースにして丁寧に描かれており、私の考える大河ドラマの理想形ともいえる完成度でした。

これは朝ドラ「あさが来た」も脚本した大森美香さんの手腕もあったかと思います。

渋沢栄一については『渋沢栄一伝記資料』という全58巻+別巻10巻という膨大な資料集があり、伝記に関しては、文豪幸田露伴や渋沢の秘書白石喜太郎の書いたものや、吉川弘文館の人物叢書シリーズ、岩波新書など数多く出版されています。個人的には昨年亡くなられたノンフィクション作家佐野眞一の『渋沢三代』(文春新書)が興味を持ちったころに読んだこともあり、大きな影響を受けました。栄一だけではなく、子篤二、孫敬三の三代を描き、正に渋沢家のファミリーヒストリーといった内容になっています。

それから、岩波文庫の『渋沢栄一自伝 雨夜譚』も非常に面白く何度も読み返しました。これは栄一が明治6年(1873)に大蔵省を退官するまでの自伝ですが、「青天を衝け」でも詳しく描かれた栄一の青年期がよく分かる自伝で、「青天を衝け」でも随分とこの自伝のエピソードが取り上げられていて、私はこのドラマを「実写版雨夜譚」と呼んでいました。

たとえば、第1回目冒頭で流れた、栄一と従兄弟喜作が、徳川慶喜が馬に乗って駆けるのを走って追いかけ、自身の名を名乗るシーンがありましたが、これは『雨夜譚』にあるエピソードが基になっており、堤真一さんが演じていた慶喜の側近平岡円四郎が、栄一が仕官を前に慶喜に拝謁したいと言うのに対し、前例がないからできないといい一度断りますが、なんとか思案し、今度御乗切(乗馬の遠出)があるからその時に追いかけて、遠くから何某でござると名乗るように提案し、栄一・喜作はそれを実行しました。まさにドラマで描かれたシーンです。ただドラマと史実の違いは、『雨夜譚』に「自分の身体はその頃から肥満して居り」とあり、実際は残念ながら吉沢亮さんのような美しい容姿ではなかったという点です。

ドラマをみた人はそんな違いも楽しめますし、これから渋沢栄一についてしりたい人も面白いエピソードが満載されていて、十分楽しめると思います。

さて、このような「自伝」は人物を調べる際に非常に役立ちます。家族構成、生い立ち、交友関係、発言や行動等さまざまな情報を得ることがきできます。もちろん、本人が書くことですから、都合のよいことを書いたり、脚色をしているという前提は持たねばなりませんが、特に資料が少ない人物については「自伝」に頼る場面が多々生じることがあります。

先祖調査においても、「自伝」「手記」「メモ」がみつかることがあります。くずし字やくせ字など読みにくいものもありますが、資料が少ない家の調査場合、大変有益な情報源になることがあります。

先祖調査をはじめる時は、こういったご先祖が残した「自伝」「手記」「メモ」自宅に残ってないか、あるいは親戚の家に残っていないか探してみると良いと思います。

「ソメイヨシノ」発祥の地

主任調査員の金子です。

東京では先週桜が満開となりましたが、私の自宅近居の目黒川も昨日あたりまでが見ごろだったようで、昼間は見事な美しさでしたが、夜の大雨でだいぶ散ってしまったと思われます。

古くから日本人に愛され続けた「桜」ですが、現在私たちが最も目にする品種「ソメイヨシノ」は、諸説ありますが、江戸後期に江戸の染井村の植木職人たちによって育成され、全国に広がったといわれています。

染井村は現在の東京都豊島区駒込のあたりに該当し、現在町名としては使用されていませんが、高村光太郎・岡倉天心など著名人のお墓が数多くある染井霊園などにかつての地名の名残りがあります。この周辺は「染井吉野ゆかりの地」として親しまれています。

「ソメイヨシノ」を作り出した人物については前述の通り、「ソメイヨシノ」の発祥自体に諸説があるため、明確ではありませんが、伊勢津藩藤堂家下屋敷に出入りしていた染井村の植木屋伊藤家の4代目伊藤伊兵衛政武が有力であると考えられています。

伊藤政武は江戸城にも出入りし、8代将軍徳川吉宗の御用植木師となり、江戸城内の植木の管理をしていました。政武は特にカエデを好み、外国のカエデを接ぎ木することに成功するなど、園芸植物の改良に功績がありました。園芸植物に関する著作も多く『草花絵前集』『増補地錦抄』などを遺しています。

政武が「ソメイヨシノ」を生み出したかはあくまで不明ですが、政武は8代将軍吉宗の命で飛鳥山や隅田川に桜を植えており、桜の植樹に功績があったことは確かです。

現在、私たちが桜を楽しむことができるのは、伊藤政武や江戸の植木職人たちの努力によると言っても過言ではありません。

伊藤政武の墓所は「染井吉野ゆかりの地」豊島区駒込の西福寺にあります。戒名に「樹」の文字が入っているところに政武の生きざまが込められているように感じました。

桜の美しさを愛でるとともに、桜の繁殖に尽力してきた人びとにも思いを馳せてみてください。

公文書館(文書館)の活用

主任調査員の金子です。

ご先祖調査で資料を探す際に、最も利用するのが図書館です。私たちも国立国会図書館、都立中央図書館をはじめ、各都道府県、市町村の公立図書館を日々利用して、さまざまな資料を探しています。

その次に利用しているが公文書館(文書館)です。

公文書館は国や各自治体の公文書を管理する施設で、閲覧室が設けられ、所定の手続きをすると公文書をみることができます。

公文書館(文書館)には公文書以外にも、個人宅から寄贈された古文書や旧大名家の文書なども保管されていることが多く、整理され目録が作成されている文書については、手続きをすれば閲覧できる場合があります。

国の場合は千代田区北の丸公園にある国立公文書館があり、ホームページで所蔵文書の検索ができ、デジタル公開されている文書はデジタルアーカイブでみることができます。

各都道府県の場合、公文書館(文書館)が設置されている県と、されていない県があります。また、市町村でも設置されている場合があり、例えば神奈川県ですと、川崎市公文書館や寒川文書館などがあります。

公文書館(文書館)という名称で設置されていない都道府県でも、実質的にその機能をはたしている施設がある場合があります。

例えば福島県の場合は福島県歴史資料館に「県庁文書」が保管されています。茨城県の場合は茨城県立歴史館が公文書館の機能を果たしています。

各公文書館(文書館)では展示場を設けている所も多く、その時々に合わせ企画展などが開催されていることがありますで、目的の文書の閲覧が終わったら、見学するとまた新たな発見があるかもしれません。

また、博物館の場合はミュージアムショップやカフェ・レストランが併設されていることもあります。

茨城県立歴史館は何度かお世話になっており、昨年10月も訪問しました。ミューアムショップに併設された「カフェ・ヒストリア」は地元のサザコーヒーと提携してしており、サザ定番の「徳川将軍珈琲」などを飲むことができます。私も閲覧が終わった後に「腹が減った」ということで、好物のハンバーガーと一緒にいただきました。文書の閲覧は集中力がいり疲れましたが、広い庭園をみながら飲む「徳川将軍珈琲」は格別でした。

ご自身で先祖調査をされている方は、図書館での資料調査がある程度進んだら、まずは対象地域の公文書館(文書館)がどこにあって、どのようにして閲覧するのか調べてみると良いと思います。

都立中央図書館が再開しました

3月16日(木)から南麻布有栖川宮記念公園内にある都立中央図書館が再開しました。

新型コロナ流行以降、時間予約制となり、昨年秋から改修工事が行われ利用制限があり、再開前1ヶ月ほどの間は休館になるなど、長い間にわたりイレギュラーな状態が続きましたが、今回の再開で、予約制がなくなり、在館600名の入館制限のみとなりました。ほぼ、コロナ前の状態に戻った感じとなりました。

早速17日(金)に諸案件の調査のために利用しました。

皆さまの中には、東京には国立国会図書館があるから、わざわざ都立中央図書館に行く必要はないだろうと思う方がいるかもしれません。

確かに日本国内の図書館で国立国会図書館の蔵書量に敵う図書館は存在しません。

しかし、国立国会図書館に蔵書がない本が都立中央図書館にある場合があります。

例えば、自治体史で、このケースがありました。国立国会図書館に蔵書がないと諦めるのではなく、都立図書館のHPで検索をしてみると、都立図書館に蔵書がある場合があります。

さらに、国会図書館の場合、参考図書以外の大半の蔵書は閉架、あるいはデジタル閲覧となりますが、都立中央図書館の3階には自治体史・伝記・全集が開架となっており、本の背表紙を見ながら探すことができます。特に巻数の多い自治体史や全集の場合は手にとって、パラパラめくった方が探しやすこともあり、国会図書館にはない魅力があります。

もちろんデジタル化による効率の向上化はめざましいものがありますが、まだまだ不便に感じる面もあり、ご先祖調査においてはデジタルとアナログの両輪を回していくことが重要なのではないかと感じています。

都立中央図書館は平日午後9時まで開館しているのも魅力的です。午後から行ってもゆっくり利用できますし、都内勤務の方は仕事終わりにも利用できます。

私も17日は久々の通常開館になったこともあって、時を忘れて調べてものをしていたら、19時を過ぎていました。終ってみると、「腹が減った」と思い、近くに昨年オープンしたモスバーガーの新業態であるチーズバーガー専門店mosh Grab’n Goで食事をしました。なかなか食べ応えがあり、明日への活力になりました。

都立中央図書館の最寄り駅は地下鉄広尾駅となりますが、周辺にはオシャレな飲食店も多いので、図書館で集中した後は、食事を楽しむのも良いかもしれませんね。

郷土の偉人を追って~朝河貫一博士展を見る~

主任調査員の金子です。

12日(日)に両親の故郷福島県二本松市へ行ってきました。

二本松は中世から続く城下町ともあって、多彩な歴史がある街です。戦国時代の伊達政宗との戦い、幕末戊辰戦争での二本松少年隊士の悲劇など、今でも語り継がれる歴史があります。

私は年2~3回は二本松を訪れ、二本松の人たちの足跡を追うべくお墓の調査や資料調査をライフワークとして続けています。

今回は昨年オープンしたにほんまつ城報館内の二本松歴史館で開催されている企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」をみるために訪れました。

朝河貫一博士は旧二本松士族の家に生まれ、福島尋常中学校へ進学し、特に抜群の英語力を持ち首席で卒業しました。東京専門学校(現早稲田大学)に進み、大西祝・大隈重信・徳富蘇峰・勝海舟らの渡航費援助によりアメリガへ留学。

ダートマス大学に編入学し、卒業後はイェール大学大学院歴史学科に入学し、その後、ダートマス大学講師に迎えられました。

日露戦争が勃発すると、日本の正義を英米国民に説き、ポーツマス条約締結時に日本側のオブザーバーとして参加しました。その後、イェール大学に迎えられ日本文明史を担当し、歴史学助教授に昇進しました。

このころ、日本では日露戦争の勝利に浮かれて軍国主義が台頭していました。朝河博士は歴史学を学んできた見地から、これを警告し、このままいくと世界から孤立すると訴えた『日本の禍機』を執筆します。残念ながら、これは太平洋戦争の予言書となってしまい、朝河博士の憂いは的中することになります。

歴史学者としては中世法制史を専門として、鹿児島の入来院家に伝わる文書を調査した『入来文書』で世界的な評価を得ました。日本とヨーロッパの封建制度を比較したもので、当時ほかに例がない研究でした。これら東西封建制の比較研究の実績により、昭和12年(1937)には日本人初のイェール大学の正教授となりました。

昭和16年(1941)、日米に開戦の危機が迫ると、開戦を回避するために、ルーズベルト大統領から昭和天皇へ送る親書の草案を作成しました。これを基に作成された親書が日本に届いたのは、正に真珠湾に向けて攻撃機が飛び立ったその直後でした。朝河博士の願い空しく日米は開戦しました。

開戦後、アメリカ在住の日本人・日系人の多くが強制収容されるなど、行動の制限を受けましたが、朝河博士にはこれまでの業績と思想への敬意がはらわれ、行動と学問の自由が保証されました。朝河博士は終戦後の昭和23年(1948年)8月11日に74歳で亡くなりました。

訃報は「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した。」と世界中に打電されました。

今回の二本松歴史館での企画展は朝河博士生誕150年を記念したもので、パネルの展示が多いですが、朝河博士の生涯をコンパクトにまとめており、福島中央テレビで放送された30分間の番組も上映され、朝河博士の業績をよく理解できる内容となっています。ゆかりの地マップも配布されており、これは出身地ならではのことです。

私の先祖は二本松の一般庶民の家であり、朝河家と何か関係があったという話は聞いたことがありません。しかし、朝河博士の生家跡は私の母方の菩提寺のすぐ近くにあり、朝河博士のお墓がある金色墓地には私の父方の曽祖父のお墓があります。子どもころにお墓参りにいくと、すぐそばに朝河博士のお墓があり、そのころはどういう人物かは分かりませんでしたが、何か偉い人のようだとの認識はありました。

 

このように、郷土の偉人をしることは、先祖調査により深みを与えてくれます。郷土の偉人と自分の先祖は同じ町のどこかの道ですれ違っていたかもしれない。そう考えるとその土地のことをさらにしりたくなりますね。

皆さんも是非、郷土の偉人のことも調べてみてください。

なお、二本松歴史館企画展「二本松で生まれた世界的歴史学者・朝河貫一博士~偉業の足跡~」は3月26日(日)まで開催されています。