東京新聞に掲載されました(^^)/
本日の東京新聞に弊社の記事が掲載されました。「だけど私は…」というシリーズもので、取り上げていただきました。 昨夜7時まで、記者さんから文言の確認のお電話をいただき、やはり大変な仕事だなぁと感心しておりました。
本文は掲載できませんが、雰囲気だけでもご覧ください。
昨夜もNHKファミリーヒストリーでは、北村一輝さんの3系統のルーツが明らかになり、120軒の前城さん宅に問い合わせした部分はさすがと思いました。

国土地理院のサイトからお借りしてきました。歯舞群島の秋勇留島―アキユリトウ―
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当社の開業は、私の父の半生とルーツをまとめた本を作ったことがきっかけだったのですが、その父も90歳。
まだまだ元気でいてほしいので、第二弾を制作するよと、いろいろ質問しています。
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まずは生まれ故郷の秋勇留島での思い出を、地図に書き込んでもらおうという作戦。学校をさぼって何千羽もいるカモメの卵を取って食べたそうです。味は鶏と変わらなかったとか(^^)/
今朝の読売新聞に我が家のファミリーヒストリーが…
読売新聞朝刊全国版に弊社のことが掲載されました。
ある年齢になってから、以前と全く異なることを始めた人々を特集するコーナーです。確かに言われてみれば、前職は食品メーカー研究員でしたので、なぜファミリーヒストリー記録社をはじめたのかと聞かれることもしばしばです。
今回の記事でだいたいのところは書いていただきました。恥ずかしながら我が家のファミリーヒストリーも書いてあります。
こんな背景を持つ会社ですが、引き続きご愛顧のほどよろしくお願いします~
http://www.yomiuri.co.jp/economy/job/middle/nextlife/20150729-OYT8T50053.html
あらためてファミリーヒストリー記録社の思い
ここ1-2週間で3度ほど人前でお話する機会をいただきました。4分、30分、60分とそれぞれ話す時間もテーマも違いますが、ファミリーヒストリー記録社の思いを伝えられていればいいなと思います。
「思いと歴史を知ることは、自分自身だけでなく家族や会社の絆を深め、価値に気づき、価値を高めることです。思いや記憶は話さなければ消えてしまいます。是非お話してください。ファミリーヒストリー記録社は思いや歴史を伝えるお手伝いをしています」――そうお伝えしていました。
講師として話す時に思っていることは、一度でもいいので笑わせたいなぁということです。笑ってもらえれば、リラックスしてもらえるからです。そして最も伝えたいことも聞いてもらえるように思うからです。今回はどうだったんでしょう? 後からアンケート結果が回ってきます。ドキドキ。
お客様のお話をお聞きし、文章化する際も同じかもしれません。読む方の事を考えて文章にしなければなりません。これまでは、その方の話している雰囲気を文章にうつしたいと思っていました。ご家族が目を通した時に、その方がそばで話しているかのように文章化していました。もちろん全体的な整理もしますし、時代の流れを客観的に表現し、わかりやすくする工夫はしています。
しかし改めて文章の勉強をしてみると、話す時と同様に、心をつかむ書き方や順序、リズムがあり、最後まで読みたくなる文章にできることがわかりました。
話していないことまで装飾はしません。でも読み手を意識してこれまで以上に気をつけたいと改めて思いました。
その時代に生きた足跡
そうして、話に聞いた秋勇留島、横浜市鶴見区の寄宿舎、その近くのお寺、株式会社IHIの歴史、そんな資料を集めてその時代を思い浮かべられるように記録し始めたのです。写真が無ければ想像図をイラストで描き、地図があれば国土地理院に行き、戦争体験があれば軍歴証明を取り、渡航経験があれば外交史料館、経営者なら社史図書館などなど...。
もともと研究職だったので、どうも調べることが好きだったようです。
既に亡くなっていますが、シベリア抑留経験を持つ、ある会社の創業者のことを調査しました。満州国で軍属となって働いていたようですが、戦争末期の根こそぎ動員により召集されます。始めはどこでどんな仕事をしていたのか具体的にわかりませんでした。
国会図書館、防衛研究所、外交史料館などをまわって調べましたが何も見つかりません。そんな時に二代目社長の口から「同業の○○さんと一緒に行っていたそうだ」とお聞きしました。「でも亡くなって世代が変わっているし、疎遠になっているので聞くのは難しい」とのこと。しかし、その○○さんの経営する会社の社史を、川崎にある「社史図書館」で見つけます。
なんとそこには生前の創業者と○○さんが一緒に写った写真が残っていたのです。そして満州での仕事について初めて明らかにすることができました。
いつでも何かが見つかる訳ではありません。でもほんの小さな糸を手繰り寄せると、その時代に生きた足跡が見つかるかもしれません。
ファミリーヒストリー記録社はこちら→
http://familyhistory.secret.jp
知らなかったこと
今から70年前、北方領土に住んでいた人たちは命からがら逃げてきました。
父も船で逃げてきたものと勝手に思いこんでいました。ところが改めて聞いてみると、戦争中は勤労動員で神奈川県横浜市、石川島芝浦タービンにいたとのこと。終戦時17歳、手先の器用さをかわれて、長野県松本市に新しくできた工場に異動となり働いていたそうです。
8月終戦、根室に帰った父は、空襲で何もなくなってしまった市内を見て愕然としますが、幸い家族・親戚は島から引き上げて身を寄せ合って生きていました。その後父は生きていくために小学校の用務員になったり、大工をやったり、昆布の行商をしたり、行商先で出会った母と...父の話はまだまだ続きました。
ファミリーヒストリー記録社を始めようと思っていなければ、きっと聞いてはいませんでした。そんな戦前戦後の話も含めて、高度成長期の話、子育ての話、病いや怪我の話、事業を始めた話、本当に様々な話が、父だけでなく誰にでもあるということ、100人いれば100通りの物語があるということを今は実感しています。
聞こう、残そうと思わなければ、その記憶は消えてしまうだけなんですよね。
写真は前回記事の小学生の父と兄、弟、そして遠くに行ってしまったお姉さんです。
父方の戸籍謄本の取得
戸籍謄本の取得は、基本的にご本人が手続きを行います。ファミリーヒストリー記録社ではご本人の手間を極力減らすようご協力しています。
まずは根室市役所に戸籍謄本の申請をしました。すると父の父の父は岩手県山田町から転籍したとあります。そこで根室市で取得した謄本のコピーを添付して、今度は岩手県山田町に申請します。
山田町と言えば、東日本大震災で被災し、過去にも何度となく地震や津波の被害を受けています。昔の戸籍は80年間しか保管していない時期もあり、既に申請しても取得できない方も一部にいらっしゃいます。また、空襲や震災で保管している建物ごと焼失してしまっている地域もあるのです。今は150年保管しておくよう法律が変わったのですが、一番古い1886年頃発行のものは2036年までに忘れないうちに取得しておく良いでしょう。
戸籍謄本の中に、父の姉が山田町の「武藤氏再興のため除籍」とあり父が小さい時に離れ離れになってしまいました。本をプレゼントした時に涙を流した原因のひとつに、大好きだったお姉さんのことがあったのではないかと思い、このお姉さんがもし山田町で生きていたなら...と想像しました。
無理とは知りつつ、山田町役場に問い合わせましたが、残念ながら直系ではないため、もしいらっしゃったとしても情報をいただくことはできませんでした。
大正8年生まれのお姉さんは7歳で山田町に渡っているので、生きていたら95歳。今度山田町に行った時に、何かつながりが見つかればと思うのでした。
北方領土生まれ
父は昭和3年、今は北方領土と言われている、歯舞諸島の中の小さな小さな島「秋勇留島」で生まれました。終戦と同時に引き上げてきて、根室半島の漁村に居をかまえ小さな魚屋を始めました....ということは伝え聞いていたのですが、実際にどんな理由があって北方領土に来たのか、その前はどこにいたのか、どんな生活をしていたのか、さっぱり知りませんでした。また、若いうちは知りたいとも思いませんでした。
しかし不思議なことに自分が40歳を過ぎ50歳に近づいてくると、聞いておかなければと思うようになってきたのです。さらに父が大病を患い、手術でもしものことがあったらという医者からの確認があり、ますますその思いは強くなりました。
秋勇留島は人よりも馬の方が多い島で、一緒に暮らしていた人たちはもう残っていないのではないかと思います。
北方領土と言えば、中学校時代、北方領土返還を訴える根室市主催の弁論大会に出ることになりました。あまり声も大きくないですし、感情を入れて話すのも得意ではありません。それでも最後のフレーズくらいは大きな声で締めなくては!!と緊張してしまったのでしょう。一番良いところで、大きな声でかんでしまいました...(泣)。
つい余計なことまで思い出してしまいました。
そうして父のファミリーヒストリー調べが始まりました。 (つづく)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF%E8%88%9E%E7%BE%A4%E5%B3%B6