全国NHK文化センターでのリアル講座、始まりました。

 全国NHK文化センターでのリアル講座、始まりました。

 24日初日の「ファミリーヒストリーを調べよう」講座仙台教室準備中の図です。午前、大勢の受講生が来てくださいました。午後はその足で盛岡教室へ。こちらでは出身大学もあって、同級生も参加してくれました。
 どちらの教室も反応が豊かで、話していて気持ちの良い温かい雰囲気でした。いつも移動時間で長居できないため、いただいた質問にはこれからじっくり返信していきます。

 来週末からは関西以西に伺います。調査の基本に加えて軍歴証明のこと、国会図書館デジタルのことなど、インターネットにつないで実地に検索法をお伝えします。待っていてくださーーい(^^♪。

106年ぶりのお墓参り、米国地元紙に掲載されました。

106年ぶりのお墓参り、米国ワイオミング州地元紙に掲載されました。

【記事翻訳】
ケメラー‐宗貞幹子氏と夫の高野勝則氏は、宗貞氏の曽祖父で、1917年に事故により亡くなるまで第6サブレットで炭鉱労働者だった宗貞作市の墓を訪ねるため、広島からケメラーまで驚くべき旅をした。夫妻は9月2日の土曜日に街を訪れた。

植田杏奈氏と彼女の夫であるジャニル・ヘーラット氏が通訳を務め、夫妻はサウス・リンカーン墓地にある曽祖父の埋葬地を訪れた。植田氏はファミリー・ヒストリー・レコード社にて、日本人の家族が親戚や先祖と再びつながる手助けをしている。

「曾祖父の軌跡を辿り偲ぶというこの心温まるミッションは、世代を超えた繫がりを痛切に物語るものです」と植田氏はガゼットに語った。「長年分からなかったルーツがこのように繋がったのは、彼らにとって非常に意味深いこと。日本では毎年8月に先祖の墓参りをする習慣があります。今回の旅はタイムリーな時期であるだけでなく、ルーツと繫がり、曽祖父が遺したものを称えたいという宗貞さんの長年の夢が実現することとなった非常に深い意味を持つものです。」

宗貞氏は、曽祖父がアメリカに移住したことは聞いていたが、正確な場所はそれまで知らなかった。彼女は曽祖父の作市がケメラーで亡くなったことに加え、作市が炭鉱労働者であり、サブレット第6炭鉱で事故により亡くなったことを知った。

フォート・ブリッジャーに住むジャン・ケナー氏の助けを借り、宗貞はケメラーにある曽祖父の墓を見つけることができた。ケナー氏は、Find A Graveというウェブサイトを通じて宗貞とつながった。

「夫と私は彼女の曾祖父の名前を持ってケメラーの墓地に来たのですが、お墓を見つけることができませんでした」とケナーは語った。

ケナー氏はその後、(追記:埋葬者と墓石の照合の際に)名前が英語で登録されてあり、またその綴りが間違っていたことを発見した。そして彼らは正しい綴りを見つけ、墓石を見つけることができた。

「すべてがひとつに繋がるなんて、なんと素晴らしいことでしょう」とケナー氏は言った。

植田氏とケナー氏の歴史への情熱と先祖代々の遺産を守ろうとする姿勢が、宗貞氏の家族の物語を明るみに出した。植田氏は何カ月も費やし夫妻の家族のルーツ探しに協力した。

「ジャンの助けがなければ、このプロジェクトは完成しませんでした」と植田氏。「このルーツ探しの過程でとりわけ注目すべきなのは、ジャンの助けです。これは、文化を超えたコミュニティの力を示しています。彼女の知識と献身のお陰で、埋葬場所を正確に特定することができました。」

何度も電子メールのやりとりをした後、ケナー氏と宗貞氏はついに墓地で対面し涙を流した。そして宗貞氏は初めて曾祖父の墓を訪れた。夫の高野氏とともに作市の墓前で祈りを捧げ、墓石に日本酒を注ぎ、宗貞氏は日本の曾祖母の墓の土を作市の墓にまいた。

植田氏の通訳のもと、宗貞氏は先祖を偲ぶことの意義と、思いがけない縁がもたらす影響について語った。

「私は小さな町で生まれ、曽祖父がアメリカに行ったことは聞いていました。大人になるにつれ、曽祖父のことを考えると、海外で一人亡くなるのはどれだけ寂しかったろうと思うようになりました」

曾祖父のことを思い、祈っていた宗貞氏は、彼の墓を訪れ、計り知れない幸福を感じたという。

「今日、私たちがお参りしたことで、曽祖父が幸せな気持ちになってくれていたらいいなと思います。彼は私たちにここに来てほしかったのだと思います。」

地元の歴史家であるノリス・トラトニック氏は、作市の死について彼が見つけた情報を提供するために墓地にいた。1917年1月10日、作市は45歳の時に落石により亡くなったという。

地元の墓地を訪れた後、一行はフォッシル・カントリー・フロンティア博物館に行き、その後フォート・ブリッジャーにあるケナーの家に向かった。
https://kemmerergazette.com/article/japanese-woman-travels-to-kemmerer-to-connect-to-past

関東大震災から100年

主任調査員の金子です。

本日9月1日は大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災から100年となります。
弊社の調査でも関東大震災で身内が亡くなったり、震災の被害で転居したといった話が出たことがあります。
また、被害が大きかった地域では役所の火災により戸籍謄本焼失してしまった所もあり、大正12年より古い戸籍謄本が取得できないといったケースもあります。

関東大震災に関する書籍が数多くありますが、まず1冊読むとするなら吉村昭の『関東大震災』が良いと思います。
吉村昭は作家ですが、徹底した史実調査や取材・検証を行った作品を数多く発表しており、この『関東大震災』も生存者への取材や証言収集、文献資料を行って書き上げられました。

特に約3万8000人もの犠牲者を出した本所被服廠跡での火災旋風の描写は生々しく衝撃的です。
また、震災直後に発生した流言飛語、それによる自警団の結成と朝鮮人殺害についても詳細に書かれています。

私が特に関心を持ったのは冒頭部分で関東大震災以前にさかのぼり、地震学者による論争があったという話です。
地震学者で帝国大学助教授であった今村恒明が、明治38年(1905)に今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した記事を雑誌『太陽』に寄稿して、これが新聞によって煽情的に報道され、社会に混乱が起きたため、今村の先輩で帝国大学教授であった大森房吉がこの説を否定し、混乱を鎮めた「大森・今村論争」という出来事がありました。
大森は地震対策の必要性は理解していましたが、社会に混乱が起こることをおそれ、今村説を退けましたが、結果として、今村説は的中し、関東大震災が起こりました。

大森は関東大震災が起きた際に汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアへ出張していましたが、急ぎ帰国しました。この時、大森は病魔に襲われており、帰国すると病床に見舞いに来た今村に自身に重大な責任があると伝え、間もなく死去しました。
今村はその後、大森に代わり地震学の第一人者として日本における地震学の発展に貢献しました。

『関東大震災』は地震の被害はもちろんそこから派生した出来事や、近代日本における地震学にも触れられており、地震についてさまざまな角度から考えさせられる内容となっています。
この本に書かれていることは阪神・淡路大震災・東日本大震災はじめ大地震を経験した現在を生きる私たちにもリアリティーがあるもので、今なお克服できない課題が残されていることに気づきます。

『関東大震災』で冒頭と末尾に登場する大森房吉・今村恒明のお墓は偶然にも同じ多磨霊園にあります。
地震予知をめぐり対立した二人の学者ですが、地震の被害を最小限にとどめたいという共通の想いで研究を続けたことは確かでしょう。

関東大震災から100年の節目という今日をきっかけに、今一度地震に対する「備え」を再確認したいものです。

100年ごしの墓参り

100年ごしの墓参り

明治時代末期に渡米、大正時代に現地で亡くなった方のお墓を当社現地スタッフの調査で見つけることができました。

そのお墓参りに末裔が行かれることになり、100年ごしの対面?? 海を越えてご先祖と出会うのはどんな気持ちでしょうか。

現地スタッフがご案内します。

その他近況です。

・ある調査で小学校に問い合わせ。校長先生がご対応くださって、現地の方々を巻き込んだ、こちらも90年越しの交流が始まり温かさに感動しています。

・先日の続きで伊達藩ゆかりの末裔の本、瑞巌寺さまにも寄贈しました。♪松島~のさぁよ~瑞巌寺いほどぉの~♪頭の中で流れます。

・調査でよくあるのが実の父母は?‥という戸籍謄本に載らない場合です。やはりフルネームや場所が絞りこめないと難しいです。うんうん唸って推理しながら進めています。

・読めない戸籍謄本のテキスト化依頼は相変わらず多いですが、原本を穴をあくほど見てもわからない、印刷が悪い、消えている、極端なくせ字などと向き合って校正しています。判明すると嬉しいですね。

・やはり日記や手記などの手書き文をテキスト化して、冊子にするケースもあります。装丁デザインでぐっと読みやすく、親しみやすくなります。

・2年越し3年越しの調査も頑張って調査とご報告を続けています。お客さまからの写真待ちも複数。寄り添って家族・一族の宝物にします!!

 残暑厳しいですが頑張ってサバイバルしましょう。

戸籍謄本のテキスト化、お客さまの声届きました。

 戸籍謄本のテキスト化、お客さまの声届きました。

 印刷の加減で全く見えていない部分も、これまでの経験で蓄積した戸籍謄本用語?! を類推して回答しています。わかるとすっきりしますね。
 実は結構大変な業務なのですが、ご先祖にせまる調査のためには、戸籍謄本が読めるかどうかはとっても大事なポイントです。読めなくてあきらめていた戸籍謄本、もう一度見てみましょう。お手伝いしています。

お客さまの声、いただきました。

 お客さまの声、いただきました。

 書かれているように、軍歴証明はありましたが、たった数行の情報しかありませんでした。ただ90年以上も前の写真を大切に保管しておいていただいたので、服装や背景などから読み取って「従軍の足跡」を作成することができました。
 軍歴証明情報が少なくても、あるいは無くても、その他の情報で補完できる場合もあります。ぜひ試してみてください。
 Sさま、ありがとうございました。

日本青年会議所石材部会通常総会で講演を行いました

主任調査員の金子です。

7月21日(金)に新横浜グレイスホテルで開催された2023年度日本青年会議所石材部会第2回通常総会へご招待いただき、「参拝者から見たお墓の特性~過去から未来へのヒントを探る~」と題し、1時間ほどの講演を行いました。

日本青年会議所石材部会様とは弊社吉田代表が以前講演にお招きいただくなど、ご縁があり、今回私が講師としてお声かけいただきました。

プライベートな研究と弊社の調査と双方でお墓をはじめ石造物に接することが多く、今まで様々なお墓・石造物を見てきた中で得られた知識、感じたことなど、幅広い内容でお話いたしました。

講演内容の一部をご紹介します。

日本におけるお墓は古代の遺跡や古墳などからはじまる歴史がありますが、「文字を刻んだ石碑」としては飛鳥時代~奈良時代に建てられた「日本三古碑」と呼ばれる石碑があります。

その一つ「多胡碑」がある群馬県高崎市には日本最古の碑と呼ばれる「上野三碑」があり、2017年に「ユネスコ世界の記憶」に登録されています。

「上野三碑」を巡るには上信電鉄吉井駅より無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」が毎日運行しており、多胡碑記念館には三碑に関する資料のほかに、中国の石碑の拓本など三碑のルーツに関する資料も展示されています。

私も現地に行き3ヶ所を巡ってきましたが、確かに飛鳥時代の石碑の文字が読み取れました。

このように飛鳥時代より始まった石に文字を刻む文化が発展していき、やがて墓碑・記念碑・顕彰碑や寺社への寄進物など、さまざまな石造物が作られ、そこに文字が刻まれていきました。

自然災害が多い日本において、紙に勝る歴史史料となっていきました。

このような石造物の歴史や、私が見てきたさまざまな形態のお墓・記念碑、母の墓を建てた経験、近年のお墓の無縁化・墓じまいのことなどをお話し、その中に石材業界の皆さまの将来に何か役立つことがないかということを探る講演内容となりました。

終了後の懇親会にも参加しましたが、日本各地の石材屋さんが出席しており、中には十数代を数える方もおり、石材のこと、業界のことなどさまざまなお話を聞くことができ大変有意義な時間を過ごせました。

懇親会でも挨拶いたしましたが、その際に次のようなことを述べました。

私の仕事は過去にさかのぼって調べていく仕事ですが、皆さまは未来に向かっていく仕事だと思います。それは私が各地の石造物を見るたびにこれを作った石工さんに思いをはせるように、未来の人たちが皆さんの造ったものを見て思いをはせる。とても素晴らしいお仕事だと思います。

少子高齢化など社会問題が複雑化する中、石材業界の皆さまも悪戦苦闘をしている状況ですが、わが国において長い歴史を持った石造物の文化の奥深さの中に将来のヒントがあるのではないかと思い、エールを贈りました。

改めて、講演をお聞きいただきました皆さまに感謝申し上げます。

可愛い本ができました。国会図書館と関連する図書館に納本・寄贈しています。

可愛い本ができました。国会図書館と関連する図書館に納本・寄贈しています。

 カバーにも一族のキャラクターが描かれ、本文中にも15枚イラストページを入れています。お子さんにも読んでもらいやすい本になりました。
 室町時代から現代までの一族の上がり下がり、激動の歴史と、著者の半生が描かれています。とても少部数なので、販売はしていませんが(ISBNコードは付与しています)国会図書館に1部納本したものが数週間後に見られるはずです。
 思わず自慢したくなる、可愛らしい宝物のような1冊になりました。